「普通の人」に向けたサービスのこと - レジデント初期研修用資料
以前、濱野智史さんがニコニコ動画はオンラインゲームのようなものと表現していたことがあった。
ニコニコ動画が始まってから今もずっとフォローし続けている生粋のニコ厨にとってこうした仕様変更、サイト構造の改装を理解することはゲームを攻略するような感覚なのではないかな。自分はそこまで活発ではないけど今回の変更は定期的な変化として受け入れている。
文章中の「祭の正門」は自分にとって毎時マイリストランキングにあたるのかな。
(via syoichi) yaruo“ニコニコ動画が複雑になった
ちょっと前のニコ動は、好きな単語を検索して、再生数の多い動画を楽しんで、タグをたどって面白そうな動画を探して、大体みんな、そんな風に楽しんでいたみたいだったから、安心だった。
今はなんだか、「いわゆるニコ動」以外にも、生放送とか大百科、コミュニティ、いろんな楽しみかたが提案されて、それぞれ連携して、便利になって、多様になって、結果として、「自分はたぶん真ん中を楽しんでいる」なんて、そんな安心感が遠くなった。今までどおりに遊んでいるのに、なんだか不安な気分。
これが文化祭とか、あるいは実世界でのイベントなら、たとえば「順路を回る」とか、「好きな歌手のコンサートを聴く」とか、主催者側はたいてい、「典型的な楽しみかた」というのを提示する。お祭りを楽しみたい人は「祭の正門」をくぐるってパンフレットを受け取るだろうし、コンサート目当ての人は、たいていは看板が立っていて、中庭のステージ前で待機していれば、そこでコンサートを楽しめる。
「普通の人」はたぶん、自分がそこを楽しむよりも、むしろ「みんなと同じ」を志向して、びくびくしながら「群れの真ん中」を探す。「いつも真ん中」感を提供しようと思ったなら、だから「たくさんの選択肢」を提供するよりも、むしろ「たくさんの門」を提供して、「つながり」は、バックグラウンドで提供したほうがいいような気がする。
今みたいな「何でもあり」の賑やかな入り口ページは、やっぱり難しい。
たとえば「いわゆるニコ動」を楽しみたい人なら、Google みたいな検索窓と、カテゴリーごとのタグで十分だし、「ニコニコ生放送」を楽しみたい人に向けたページなら、やっぱりそれはテレビの延長なんだから、入り口ページを開いたそのとたん、「世界の生放送」が勝手に始まるぐらいでちょうどいいんだと思う。コミュニケーションのページなら、そこはmixi そっくりのページレイアウトでいいわけで、たとえそこでやりとりされるのが動画サイトの話題とはいえ、コミュニケーションを提供するページからは、あえて動画を隠すぐらいでいいんだと思う。
ページを開いて、開いたそのとたん、「どうすれば典型的に楽しめるのか」が視覚的に提供されて、はじめてたぶん、普通の人は「楽しみかた」を理解できて、理解を提供できないサービスは、それがどれだけすばらしいものを提供していても、やっぱりどこかで天井に突き当たる気がする。
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//d.hatena.ne.jp/shamano/20080306/1204732751
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